考えが先か、言葉が先か、という議論がありますが、一般論は「考えが先」だと思います。考えが頭の中で先に形成されるから、そこで初めて言葉に変換できる、考えを言葉に変換している、という考え方です。考えが無いのであれば、言葉にしようがない、発言しようがないし文章にしようがない、そう捉えられるのが一般的な気がします。
科学的にどちらの解釈が正しいかが分かりませんが、逆方向で捉えてみると、発想が変わるのではと思っています。逆説的にも聞こえるかもしれませんが、「考えるために言葉を発する」「言葉が先にあり、考えが後に来る」という捉え方です。
直感的でない、不思議な現象だとは思いますが、1人で黙々考えても全く前に進まないのに、誰かと会話すると、話している間に考えが意識上に浮かんでくることがあります。1人でアイディアを生み出そうとしたり考えを発展させようとしたりしてもグルグルと同じことを考えていて、「考えている」というより「悩んでいる」に近い感覚を覚える一方で、誰かに対して言葉を発した瞬間から考えが発展している、思考が発散する・収束するみたいな不思議な現象がある気がするのです。
どういう原理かは分からないですが、外部化、対象化がキーな気がするのです。言葉にするということは、外の世界に考えを放出する行為だと思います。違う角度で見ると、外の世界に言葉を放出することが考えるという行為それ自体になると思います。
外に出すことで言葉を客観視できる(そして、外に出した分の容量分、脳のメモリに空きが生まれる)、そしてそれが起点となり、壁打ち的機能を果たして、考えが前に進みます。「話す」「言葉にする」という行為は、そのプロセスが瞬間的に、ほぼ無意識に実行される気がします。
文章についても同じことが言えます。何について書きたいか決まってないけ、書いている内に書く内容が発展していく、まとまっていく、という現象を体験したことは誰でもあるはずです。これは即時的なプロセスの話ですが、少し長いスパンで見たときも、同じことが言えます。文章を書くために文章を書くと、書くことが生まれてきます。
文章を書くために文章を書いている訳じゃないけど、「文章を書くために文章を書く」を起点に文章を書き続けると、考える基盤に「書かないと!」という意識が植え付けられ、文章を書くアイディアが生まれると思います。書くアイディアが既にあって、それをきっかけに文章を書く訳ではなく「文章を書かないと」と思うので、「あれ、今日書くことないな…」と悩み始めて、その悩みが新しいアイディアに発展したりしますよね。
文章を書くことって考えること、アイディアを生み出すことと類似した(もしくは同じ)活動かもしれないので、アイディアのためのアイディア、アウトプットのためのアウトプット、企画のための企画という考え方で、数を出すのが血肉になると思ったりしています。
アイディア、発想、企画を生み出すにはどうすればいいか、という話があるとき、「緊張と弛緩」というキーワードになることがあります。シャワーや通勤中に「ハッ!」といいアイディアが思い浮かび、メモを書かないと!と思うことが誰にもあると思います。
アイディアを生み出しやすい環境は4B(Bathroom、Bus、Bed、Bar)と言われています。仕事でデスクに座って黙々とアイディアを見つけ出そうとしてもなかなか見つからないけれど、リラックスしているときにふと思い浮かぶ場合があります。これが弛緩です。
しかし、ただリラックスしているだけではダメで、緊張がないといけません。先程の「何かを生み出さないといけない」と意識してプレッシャーを感じ黙々と考える時間です。この緊張の時間があって初めて弛緩が効果を発揮します。
何かをアウトプットするとき、「何のためにしているか」が欠けていると、本質的なアウトプットにならないことがあります。例えば資料を作成するときに、「資料を作成する」ということが目的になってしまうと、本当に大事なことを見失い、資料が本来果たしたかった機能を果たせないです。資料作成も何か解決したい課題が先にあり、その手段として資料があるだけです。
ただ必ずしも手段に焦点を置くこと自体が必ず悪いとは言えないケースがあると思います。つまり冒頭の例だと、「文章を書くために文章を書く」というのが、切り口として大事な場合があります。
(切り口として、という言い方をしたのは、何か成長したい方向性がありその中で無作為に文章を書き続けると何の効果も生み出さないかもしれないという前提はあり、例えばロジカルシンキングを鍛えたいなどと考えているときに「私はご飯が食べたい。私はごオムライスが食べたい。私はごオムライスが作りたい」などと無作為にパズルのような、言葉遊びのような文章を作成しても目指している方向性に沿った成長は望めないのかもしれないので、物事の捉え方、分かりやすいメッセージングとしては有効だ、という意味です。)
例えば、アイディアを生み出したいとき、(勿論目的を常に頭に入れながら抽象の方に目を向けるのは大事なのですが)「アイディアを生むこと自体」に集中してアイディアの量を出すことで結果になることがあります。量と質、という観点で、1つの最高のアイディアを出そうとしても上手くいかず、99のアイディアを生み出すと、その経験の結果として100つ目のアイディアが最高になる場合があると思います。
アイディアを沢山生もうとする意識、姿勢、行動が塵(経験)となって溜まっていってあるときに沸点を通り過ぎる、ということがあると思います。その「量が質を生み出す」という観点で、アウトプットのためにアウトプットを行う、という考え方は一理あるのです。
文章に戻ると、「何か書きたいことがあったときに文章を書こう」と思うのと、「とりあえず何でもいいから書こうとしてみよう」と思う場合だと、後者の方が文章を書けると思います。「とりあえず何でもいいから書こうとしてみよう」と思うと、書く内容、目的によっては興味深い議題、刺激を与えられるようなコンテンツを、無理やり見つけ出そうとすると思います。見つけ出そうと常にしていると、見つけ出そうとしていないときに比べて、気付きが多くなると思うのです。
「何か書くことないかな」と意識し続けると、「あれ、今『教わる』と『学ぶ』には明確な乖離があるって言ってたな。どういう意味だろう。これについて整理できるかもしれないな」と気付くかもしれません。「コミュニケーションからの学びについて書いてみよう」と意識し続けると、普段の周りのコミュニケーションから「あれ、今なんで稲垣さんは中居さんを説得できたのだろう。どういう説明の仕方をしたのかな、事前に根回しとかしてたのかな」と気付くかもしれません。
「説得する方法について書いてみよう」と意識し続けると、「あの人の説明の仕方、すごく説得力があるな。なるほど、すごくシンプルに、情報量を削ってデフォルメさせているから、腑に落ちやすいのかも」と気付くかもしれません。そしてこれらの気付きは「とりあえず何でもいいから書いてみよう」と考え続けないと、気付けていないものです。
この「あ!」という気付きは、文章を書くために文章を書くという活動をし続けている結果です。文章を書くために文章を書くことを続けると、「文章を書こう、文章を書こう」という緊張状態、バスに乗っているときや手を洗っているときの弛緩状態、この行ったり来たりが自然とできるようになります。書くアイディアの芽のようなものが、気付かぬ内に無意識下に沈殿していき、それがある「しきい値」に到達したときに書き始められます。それを言い換えると、量により質を生み出す、経験、失敗(=学び)の回転から成果を生み出す、ということだと思います。
文章を書くために文章書く。おすすめです。